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多様性を認め子供たちの可能性を広げる習い事「いとっこクラブ」(糸島学習塾YES 前原駅前校のキッズ部門として生まれました)

多様性を認め子供たちの可能性を広げる習い事「いとっこクラブ」(糸島学習塾YES 前原駅前校のキッズ部門として生まれました)

サラリーマン

7月に退職して9月に入社する間での
間は、つり三昧でした
本場の若狭湾で覚えた団子釣りが
佐世保の海で大爆発!!
毎日のごとく釣りに行く日々でした
そしていよいよ民間企業へ
入社した会社は株式会社タイヨーほっかほっか亭の本部です
当時社員数100名あまりの中堅企業でした
配属は管理本部管理部に配属になりました
当時のM専務に言われたことは今でも忘れません
M専務は「キミは組織で育ってきている我が社も組織を作っていかねばならない君の経験を生かしてくれ」とおっしゃりました
その当時、自分のキャリアを必要とする人がいたことに驚きました
なんせ組織がいやだったんですから
と言われたものの何をすればいいかわかりません
何せアルバイトもしたことがないんですから
でも、いざ仕事を始めて見るとこれが
結構はまってしまいました
確かに急成長している会社で人が足りていなかったせいか
すごくいろんな事を任されました
最初は、決算の手伝いそれからレジ締め時間の変更案の作成
そして、上場準備のための予算など
いろんな事をやりました
それも自分で作って良いんです
自衛隊の時のようにルールを守ることではなく
新しいルールをつくる事が私の仕事になりました
そこで初めて仕事っておもしろいんだ!!
と思えました。
自分から仕事をする。自分で仕事を作る。そんな感じでした。
この会社にには、仕事を教えるしくみはありませんでしたが
人が育つ環境がありました
任せすぎて問題があったこともないとはいえませんでしたが
やる気にあふれた人が多く業績も伸び続けました
管理の仕事をしていて思い出深い事件がありました。
営業のN部長との出会いです。
N部長は、とてもサラリーマンには見えない武闘派の部長でした。
当時100億の売り上げを任されているとおっしゃってました
その部長が我々は商いをしている
弁当屋を格好悪いと思っている奴もいるかもしれんが
弁当で稼ぐか宝石で稼ぐか方法論の違いであって
商いは同じ、儲からねば意味がない
と言う言葉を聞いて少しずつ経営というものが
感覚的にとらえられてきました
それまでは経営はおろか営業さえもしらない世界だったんですから
少しずつ民間の仕事にも慣れてきた頃
専務付きと言うことになりました
専務の特命事項をする仕事だったんですが
これがためになりました。
私は、まだ経営も商売もわからない人間なのに
百戦錬磨の専務と毎日仕事の話をするんです
最初あまり意味がわからないこともありました
しかし次第になれてきました
そんなとき専務に
韓国行ったことあるか?
と言われました。
韓国で合弁事業を検討しているとのこと
その市場調査をしたいのだが
やれるか?
ということでした。
かいがいで仕事をしてみたいという
漠然とした思いはあったものの
いざ現実になるとどうして良いのか全くわかりませんでしたが
せっかくのチャンス頑張ってみようと思いました。
うちの会社は決まったら早い
ばたばたとパスポート、ビザを取得し韓国へ
韓国では、丸紅が仲介役で韓国の真珠ハムという会社と
3社で合弁事業を立ち上げようというものでした
当時の韓国は日本のような商社がないため
メーカが個々に物流を行っておりほっかほっか亭を展開するとなると
物流を整備することが非常に重要になります
また、当時の韓国は急成長の過程にあり
市場としては申し分ないと思われました
また、韓国の企業も非常に興味を示してくれ
名前もそのまま出店するようなところまで来ていたのですが
最終的にはトップの判断で中止になりました
担当者としてはやりきれない気持ちでしたが
今考えれば、妥当な判断といえると思います
日本だけでもまだ成長が続いているのに
韓国にまで手を出していたら大変なことになっていたかもしれません
でも、このプロジェクトは、3年ほどに及び
そこで得たものは非常に貴重でした
まず、ソウルの丸紅で1ヶ月仕事が出来たこと
やはり商社で鍛えられてた方と一緒に仕事が出来て
非常にためになりました
M部長は口癖のように「仕事は段取りだ」とおっしゃっていましたが
まさにそうだと思いました
そして、そこで感じたのは自衛隊と同じ感じを受けたということです
自分の経験を語り部下を育成するという
まさにそれは人材育成だったんです
自衛隊の時に嫌だったことが、その時は受け入れられたんです
少し自分が成長したのがわかった瞬間でした
平成4年7月秘書室に移動になりました。翌年社長室に名称変更になり初めて課長代理を命ぜられました。
ここでは、当時プレナスが店頭公開を目指していたので
その準備が主な仕事でした。上場準備室は別にあったので主にIRそれも会社の歴史をわかりやすく株主に伝える事でした。この期間は、他社でもそうだと思うんですが残業の嵐で毎日終電というハードさでした。ちょうどそのころ長女が生まれたんですがなかなかなつかなかったのを覚えています。結婚したてで妻や娘に大変申し訳ないことをしたなーと反省しています。仕事一筋で割り切ることが出来ずに、効率の悪いことばかりやっていたような気がします。
だだ、ここで学んだのは創業者の想い、思考を深く考えることが出来たということです。運だけでは当然成功することは出来ません。成功するためには、成功するための道筋があるんだなあと深く感心させられました。
そして創業者ほど当たり前のことしかいわれないということです。
我々は、得てしていろいろ考えた末に当たり前からはずれた行動をしがちです
しかし、創業者の考えは、シンプルであたりまえの事に徹しているということです。
うまく説明できないのですが、偉い人ほどシンプルに当たり前のことを当たり前に考えているものだとつくづく思い知らされました。
平成5年10月人事部人事課課長を命じられました。
確かにどこの会社にもあるし人事という仕事は聞いたことはありました
しかし、まさか行くとも思ってないし興味もなかったので
何がなにやらさっぱりわかりません
しかし、すごくもめ事が多い
やって初めてわかる人事のいやらしさ
とでもいえばいいのでしょうか
特に、当時の会社は癖のある人たちが多く
部長が動けば下が動くみたいな人事が横行していました
人事課長の立場で調整を行うなんぞ
とんでもないことです
今まで経験した予算の折衝なんぞかわいいものです
それだけ、中枢の仕事だということです
人事経験者が出世が早いなんて事も
自分が経験して初めて知りました。
当時は複線型の人事制度の導入というのが
最大のテーマだったんですが
もめももめて結局玉虫色の人事制度になって
しまったような気がします
よく言われていたのが「おまえの言ってることは正論やけどね」
これで終わっていたような気がします
しかしここで得たものは非常に大きく
人間にやる気を出させる仕組みを作ることの尊さです
でもこれは非常に難しい事であることもわかりました。
平成7年9月営業企画部販促企画課課長を命ぜられました
この部署は、自分の性格からして最も縁のない世界だと思っていました
私なんてクリエイティブのクの字のかけらもない人間です
未だに何で異動になったのか真意を知りたいところです。
しかし、これが最高におもしろかったんです
CMを作るのはクリエイティブなことで自分には向いていないと思っていたんですがクリエイティブなコピーを考える前にマーケティングをしコンセプトを明確にすと言うことが


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